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黒田長政 / 関ヶ原
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4. 関ヶ原 関ヶ原の戦い:東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島に52万3,000石とされる大封を与えられた。
黒田長政(くろだながまさ)
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
投稿者:noah
ソース:https://akiou.wordpress.com/2014/05/25/kanbe21-ex/
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福島正則 / 関ヶ原
[詳細]
5. 関ヶ原 関ヶ原の戦い:東軍に参加し宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。最大の激戦と言われたのが東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の争いで、「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度も退却した」(『関ヶ原軍記大成』)という一進一退の激闘となった。
宇喜多勢のの前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。
福島正則(ふくしままさのり)
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
投稿者:USSY
ソース:http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=92
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島左近(清興) / 関ケ原
[詳細]
8. 関ケ原 関ヶ原の戦い:左近も自ら陣頭に立ち奮戦するも敵の銃弾により討ち死に(諸説あり)。最期の折の勇猛さ・狂気じみた左近の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となった。特に黒田軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの逸話が伝わるほどである(『常山紀談』)。江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣し左近を目撃した老いた武将達が左近の服装について若侍相手に語り合ったが、物指、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。
島左近(清興)(しまさこん)
1600年10月21日(慶長5年9月15日)
投稿者:gozaaru
ソース:http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/shiseki/sekigahara/sima/
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