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検索結果:家康

マッピング:5
場所:六条河原
家康の命により六条河原で斬首される。
場所:長篠設楽原(設楽ヶ原)
長篠の戦い:織田信長・徳川家康連合軍38,000と戦うも敗北。信玄以来の重臣を数多く失う。通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべもなく殲滅させられたとされる。
場所:駿府
小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見
場所:関ヶ原
関ヶ原の戦い:東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島に52万3,000石とされる大封を与えられた。
場所:二条城
加藤清正や浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行った。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。

武将:6
黒田長政
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将、軍師黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州征伐の功績で豊前中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げた事から、徳川家康より筑前名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。
真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。 甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の後北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。信長、秀吉後の徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。
本多忠勝
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
結城秀康
結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川家康の次男。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。
松平清康
松平 清康(まつだいら きよやす)は、戦国時代の武将。三河松平氏(安祥松平家)の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。徳川家康の祖父にあたる。
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